透明草子

百鬼夜行からはぐれてしまったので、仕方なく人間に擬態している

好きなものについて(加筆中)

好きなものについて

そのうち個別により詳しい感想を書きたい

 

①小説

透明感があり孤独感や喪失感を滲ませる小説が一番好き

 

▶︎インディアナインディアナ(レナード・ハント)

砂が溢れるように掌から時間や温もりが溢れていく感覚。凍った記憶の数々が少しずつ開いてひととき幻覚を映して消えていくような文章。温かみや悲しみではなく、それらが過ぎ去った後に残る喪失感を感じる小説だった。もしもこうして全てが去っていくことを「時は全てを癒す」と表現するなら、それは残酷なことだと思う。

 

▶︎百年の孤独(ガルシア・マルケス)

人生は孤独な闘争なのだと教えてくれた小説。ある家系に生まれた人間達の人生が淡々と語られる。登場人物個人に共感するのではなく、ある程度本を読み進めて、時間の流れとその中の出来事を俯瞰する事で全てを覆う孤独に気付かされる。そして登場人物だけではなくて、私たちの世界の全ては孤独なのだと。

この表現方法はガルシア・マルケスにしかできないだろうと思っていたけれど、この本のオマージュしている「神の民」はこの本の孤独を継承しながらもメタSFのような作りで良い小説だった。

 

▶︎ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻

自分が残した日常に自分の形の不在があるのを確認しようとする人の話と、ある日不条理にいなくなった人の不在を抱えて生活する人の話。人同士の繋がり、その中での立場、ある程度狭められた運命、そんなものたちで規定される自分。不意にドアを開けて暮らしによって規定された「自分」から脱却したらどうなるのだろうという疑問。しかし一人になったとき人は何者にもなれないのだと思う。

 

▶︎それから(夏目漱石)

夏目漱石の小説に出てくる主人公は大抵、頭は良いものの親の仕送りや財産で生活する甲斐性無しで恋にも奥手でウジウジしている。そして友人に想い人をとられる。そんな夏目的主人公を何人も見てきたからこそ彼の決断に心を動かされた。「僕の存在にはあなたが必要だ」という言葉も好き。

百合の花の描写が心理描写として功名に作用している。

元々夏目漱石は大好きだったが、昔通っていたピアノ教室の美しくて素っ気ない感じの先生がこの小説を好んでいるのを知ってから更に好きになった経緯がある。

 

▶︎酒虫(芥川龍之介

酒豪の男に憑いている酒虫を取り除いたところ、男は確かに酒を飲まなくなったが衰弱し死んでしまった、という話だ。酒虫は彼の魂そのものだったのだろうか。「お酒は程々に」という一般認識に対して皮肉っぽくもみえるが、私の「私」はどこにある?と考えさせられる。

私には飲酒のように身体的健康に触る趣味はないが、いつも希死念慮を含む悲観的な感情を抱えている。これはずっと幼い頃から私と共にあり、私の人格と分離不可能なんじゃないかと思う。もしこれを心の病として治療されてしまったらそこに残るのはきっと私ではない。「私」はきっと死んでしまう。皆、どこか自分と切り離せない異常さを抱えているのではないだろうか。

芥川特有の語り口の怪異譚としても不思議で面白い

 

 

▶︎歌うくじら(村上龍)

グレゴリオ聖歌を歌うくじら、という象徴が素敵だった。本当は存在しない、そこが良い。物語進行自体はRPGのようだった。(自分以外にもブログでこのような事を書かれている人を見た事がある)最終目的のために、イベントを遂行してマップ移動し、旅をする。途中で仲間が増えるが順に別れが訪れ、最後にはひとりきり。旅の終末地点で語られる社会の歴史がなかなか生々しく、RPG気分から一気に現実的な危機感情に落とされた。

最終シーンの主人公の生への願望は痛切で、私は微塵も信仰心を持ち合わせていない人間だけど、このときだけは主人公とともに祈った。

 

 

②音楽

現実でない別の世界の景色を見せる音楽が好き。

アイリッシュ風のインスト曲やゲームbgmをよく聴くのだが、今回は歌詞について言及したいので歌詞付きの曲をメインで出してるバンドについて書く。

 

▶︎zabadak

遠い景色の中で起こる色鮮やかで美しい現象を映し出す音楽。その全てが普段は心底眠っている感受性を呼び起こす。zabadakは私にとってミューズだと思う。

 

特に好きなのは

・ガラスの森

のれんわけのライブ映像版が好き。音楽に入ってる音と会場の虫の音が森の世界観を作り出していて没入感がある。歌詞を安易に訳せば、ガラスの森に入って帰ってこない息子を母親が悲しんでいる、という感じだろうか。私たちはこの息子であり母親なのだと思う。何かに呼ばれて、二度と戻れない領域に足を踏み入れる。その一方で時間よりも記憶よりも宇宙よりも遠いところからずっと、哀しみを見ている。僕たちはやがて狂っていく…

例えば森に入る事が、幼年期に背を向けて大人になることを示していても、死の世界に行ってしまうことを示していてもいい。ただそれは取り返しのつかない喪失。そうして時が流れていく世界の全ては哀しいのだ。

 

・銀のしらせ

爽やかで澄んだ喪失感のある曲だ。

 

「輝く水の中で君といた 時計の形をした月が浮かんでいた 海が歌をとめてしまうまでふたりは銀色の魚のふりをした」と、幻想的な海のイメージに重ねて、いつか終わりのくる時間の中で、二人が無邪気に過ごしている過ごしている様子が思い浮かぶ。そして次に、歌詞では「最後の夢の後で目覚めて君はいない かわいた砂のように僕が残る」と水(大切なもの)を失った砂の大地(こころ)を想像させる。「なくした波の色が空をぬらす」私はこのフレーズに流れる涙を連想した。しかし旋律はずっと寄せては返す波のように進んでいく(音楽素人なのでこういう進行をなんというのか分からない)。このギャップが過去を思い返し続ける感覚や、「夜明けに会いにくる」「夜明けに雨がくる」と再び水が満ちる期待のようなものを抱かせるのではないだろうか。

完全に個人的な妄想だが、私は一時期この曲に吉良さんと上野さんの決別を投影していた。「水」を光る二人の音楽的な才能に、「君がいなくなる前の夢」を音楽家としての活躍の願いに、二人が地図に見つけた船をそれぞれの目指す音楽性の指針に重ねてしまった。

しかし今は吉良さんの喪失を投影している。一ファンがこんな事を思うのはおこがましいのだが、吉良さんを失った世界が乾いた砂の大地のように感じられ、待てど雨はまだこない。

 

▶︎原マスミ

狂気の向こう側に、美しい星空や絵画的な色合いが垣間見えて面白い。夢の中特有の無秩序感がある。そして音がかっこいい。

 

▶︎ナカノは4番

ボカロのPさん

朝日の光とか雨の雫の中に反射した誰かの傘の色とか、落ちてくる星屑とか小指に滲んだ気持ちの結晶をキラキラ集めてるみたいな曲を作られる。曲の長さも歌詞も短い曲が多い印象があるけど、その中に瞬間瞬間変わっていく風景(ex.夜に咲くように街路灯が灯る、ひととき朝焼けに染まる空)や繊細な気持ちの情報が短い中に詰まっているように思う。でも軽やかで聞きやすい。

例えばremの冒頭の歌詞

「落ちる空は青く  錆び付いた夜を飛ばして回る」

錆び付いた夜、という言葉からどこか胸の内が晴れないような気持ちを連想する。変化がなくどこか物足りない日常を錆び付いたと言ってるのかもしれない。

そしてまた私は錆という言葉から、草木と木造家屋に囲まれた田舎暮らしや洗練された高層ビルの集まる六本木のような場所の生活の可能性も除外し、「平均的な生活」を想像する。

「落ちる空は青く、錆び付いた夜を〜」

「落ちる空は、青く錆び付いた夜を〜」

この歌詞の文章がどちらで切れるのかよく分からないのだけど、前者なら心情と裏腹にさわやかな青空が夜を押しのけていく様子を、後者なら錆びてくすんだ色の夜(心情のように)を、空が押しのけて日が流れていく景色が思い浮かぶ。

こんな風に短いフレーズから想像出来ることが多いこと。たまに言葉遊び的なものが含まれていること。ぽつぽつ雨の雫を落とすように、一見、普通の話し言葉では連結されない言葉を並べて、それでも淡い感情が伝わってくるところ。雨や、滲む灯り、光を反射する氷など…のを音で表現するのがうまいところも素敵です。

 

③絵画

絵画は窓、他の世界、歴史の中の誰か二人だけの時間、夢の中、画家の心。

時に見ている絵の中に吸い込まれたり、画家の信念に心動かされたり、遊び心に憧れたりする。

 

▶︎魅力を語り尽くされているであろう、ダヴィンチ、ラファエロフェルメール、モネ、ゴッホのレビューは後に回す

 

▶︎ポール・デルヴォー

遺跡や駅のような場所に無数の虚ろな女性(同一人物ではないかと思う)が佇んでいる絵が多い。どこまでも静謐で、生命のない印象を受ける。

もしもジョルジョ・デ・キリコが人々の心に共通してある景色を描いているのだとしたら、ポール・デルヴォーは(おそらく)自閉的な彼個人の心の中に映っている影を描いているように見える。彼が、実在する他人を、彼の価値観で解釈して心の中に再構築した他人像ではなく、いなくなってしまった誰かの不完全な残像をスクリーンのように映している。キリコの絵を見ると、知らない景色のはずがどこか既視感を抱き不思議な感覚に陥るのだが、デルヴォーの絵を見ると、ここは確実にどこにも存在しない場所だと感じる。彼の絵画は存在しない場所に繋がる窓のように見えて不思議だ。

 

 

▶︎ポールドラローシュ

▶︎ヒエロニムス・ボス