透明草子

百鬼夜行からはぐれてしまったので、仕方なく人間に擬態している

記憶障害になった祖母について感じたこと

04:47

気分が可もなく不可もなく無なので、こういう時に祖母について感じたことを書いておこうと思う。

 

祖母は私が高校生だった頃に自転車で転倒し記憶障害になった。

そして祖母は新しいものから順に少しずつ記憶を失っていった。

 

最近はコロナへの危機感もあり会えておらず、最後に祖母に会ったのは一年半ほど前だった。

その時の祖母はまるで少女のようなきらめく表情をしていた。私という孫の存在も、娘である母のことも忘れていた。ただただ、少女時代の幸せな記憶だけを持ち続け思い出の中に生き続けていた。小学校の近くの山に栗を拾いに行ったこと、釣りに行く男の子たちについて行ったこと。素敵な憧れの先生のこと。

私が知っている祖母は偏屈で気難しく何かに苛立っていることが多かった。夏の暑さや冬の寒さ四季折々の変化に苛立ち、私のことを何かと「みっともない」と叱り、強引に祖母の趣味の百人一首を暗記させようとしてきた。そして嫌いな親戚に言われた言葉について執念深く恨み節を述べた。

転倒事故以降の祖母は、「私の祖母」の人格を構成していた記憶の累積を綺麗さっぱり失っていた。

身体は祖母そのままなのに、別の人間がそこにいるようにみえた。

 

ヨーロッパの伝承にチェンジリングという話がある。妖精が人間を拐って代わりにその人によく似た姿の妖精を置いていく、というものだ。

 

私は記憶障害になってからの祖母と相対する度に、チェンジリングの話を思い浮かべた。頭では目の前にいるのが祖母だと理解していても、心のどこかでその人が祖母とよく似た姿をした別人だと思ってしまうのだ。何も知らない子供のような瞳をかがやかせる祖母は妖精のようだった。

本来だったら悲しみや、これから長くはないかもしれない祖父母との時間を大切に思う気持ちになるべきだと思うのだが、なんだかずっと奇妙な心地だった。

 

たまに私の「本当の祖母」がどこか遠くの知らない場所で帰り道を失って途方に暮れてるんじゃないか、という感覚に陥る。気難しくて偏屈で、寝る前に昔話を読んでくれた祖母。私が「ばあばが動けなくなったら私が助けるよ」と子供特有の無責任な純朴さで発した言葉に涙を流していた祖母。心配性で神経質な祖母が、どこかで私が迎えにいくのを待っているような気がする。私は祖母を探しに行かないといけない気がする。

 

伝承ではチェンジリングから本当の知人を取り戻すためには妖精を火にくべるなど、死の危険性を伴う虐待に等しいような事をする必要がある。もちろん、いくら奇妙な感覚に陥ったとしても、私はそんな事はしない。そんな犯罪を犯しても自分の知っている祖母は帰ってこない。ただ、チェンジリングの寓話がどのように生まれたのかは分からないが、目の前にいる人をその人本人と受け入れられず本当のその人を取り戻すために躍起になってしまった人たちの気持ちは分からないではない。

 

相手の不連続さをうまく受け入れられない。

相手が口を開くたびに違和感を覚えてしまう。

偽物だと確信して蛮行に至るほどには正気を失っておらず、かといって事実をすんなり受け入れられるほど地に足をつけられていない自分は、この先も、この祖母が無くなった後もずっとこの奇妙な気持ちを持て余し続けるのだろうか。

 

私は今日も祖母を見つけられないでいる。