透明草子

百鬼夜行からはぐれてしまったので、仕方なく人間に擬態している

10月22日 野生の倫理

学科の友人δと悪童日記について話した。
彼女の履修している授業で悪童日記を読む課題が出たらしい。

生徒が一人一人感想を述べるシーンで、韓国から留学している青年が「これは道徳ではなく倫理についての物語だ」と述べた言葉が印象に残っていると彼女は言った。

まず、日本語ネイティブスピーカーでないらしい彼が倫理と道徳の違いを意識していることに驚かされた。
私は違いを正確には理解していない。
何となく道徳は行動の動機になる心の動きに重きを置いていて、倫理は正しさを定めるための規則やその規則から導かれ新たに明らかになる正しさに重きを置いている、のかなあと思っている。

彼が具体的にどんな事を述べたのか分からないが、このあやふや認識の上で、私は悪童日記を「これは野生の倫理についての物語だ」と言ってみたい。
この小説の主人公となる双子の兄弟は、不条理な戦時下の環境を生き延びていくため、平然と盗みやゆすりを行い、痛みに耐性をつけるためにお互いを殴り、時に平然と殺人をも犯す。
一見彼らは倫理観が欠落しているサイコパスに見えるが、刹那的な衝動に突き動かされて行動しているわけではない。
二人だけの規則で自分たちを厳しく律し忠実に行動している。
子供特有の純粋過ぎる感性をもって、環境を生き抜くために適応した形で独自の「正しい」を形成し、社会の倫理ではなく自分たちの倫理に沿って行動しているのだろう。

以前インターネットでヤノマミ族という南米に暮らす先住民族の慣習について読んだことがある。
その民族内では、生まれたばかりの臍の緒がついたままの赤子は精霊とみなされ、子の母親はその精霊を人間の子供として育てるか精霊として森に返すか選択権を与えられる。
精霊返しをすることになった場合、精霊は葉でくるまれてアリ塚に入れられた後、焼き払われる。
日本では殺人として扱われるであろうが、彼らには彼らの規律があり倫理がある。
口減らしとしての側面はあるだろう。少数人で過酷な自然とともに生きる彼らが習得した正しさがそこにある。

馴染みのない倫理、擬人化して言えば異邦人を見た時のような印象。
その点で私の中で悪童日記の物語とヤノマミ族の慣習には通ずるものを少し感じる。
もちろんその倫理を取り巻く環境もその内容も両者は全く違うのだが。

胸糞悪い小説として紹介されがち(?)なこの小説の不快感も、子供が平然と暴力的な行為をすること自体ではなく、共同体の内側に、普通なら大人の言葉を鵜呑みにして社会倫理に素直である子供が、社会倫理と異なる倫理を形成する存在として現れたことから来るのではないだろうか。

これは道徳心の無い子供の心の物語ではなく、野生の倫理の形成とそれに抵抗を感じる読者の倫理の物語だと、私は思う。