透明草子

百鬼夜行からはぐれてしまったので、仕方なく人間に擬態している

今までの生活①

1998年東京生まれ。

これは、世界のさまざまな場所で、52Hzと呼ばれる孤独なクジラの鳴き声が検出され始めてから18年後のことであり、村上龍の小説「歌うクジラ」においてグレゴリオ聖歌を歌うクジラから不老不死の遺伝子が発見される24年前のことだ。

 

 

生まれてから半年ほどで、父の転勤に伴ってロンドンのウッドサイド・パークに移住した。当時は簡単な英語で周囲の子供に対しておもちゃの所有権を主張していたと聞いたのだが、今は見る影もなく英語も自己主張も苦手だ。ロンドンでの記憶はほとんど無い。あるのは紅葉の積もった公園でリスを追いかけたことと、庭に胸が白いカラスが来たことくらい。こういった記憶の中の景色はたまに視界に蘇って目の前の景色と重なるように見えることがある。

 

 

それから二歳になった頃に日本に帰国し、初めは神奈川にある父方の祖父母の家で生活していた。

この頃に父はひとりでオランダに行ってしまった。

父方の祖父母の家は、洋風な家具、かわいらしく繊細な置物や何らかの骨董品が保管され、庭には色んな花が植えられていて、豪邸などではなかったもののお洒落でわくわくする家だった。家には祖父母の他に叔母が三人と犬が三匹、猫が五匹いた。私はその家で大人達にベタベタに甘やかされた。欲しいおもちゃ(主にシルバニアファミリーのグッズ)は何でも買ってもらえた。何をしてもかわいいと褒められたので自分は世界で一番かわいいと思っていた。

幼稚な万能感を養いながら、子供なりに幸せだったと思う。

 

 

生活の変化は不意に訪れた。

何の前触れもなく、ある日急に母に連れ出され、着いた場所は千葉にある母方の祖父母の家だった。小さい畑に面した、古くて薄暗い埃っぽい和式の家だった。

母方の祖父母も不器用ながらも優しく、厳しくも多趣味で面白い叔母がいて、すぐに新しい家族を好きになれた。

しかしここで母の教育熱心人格が覚醒した。

幼稚教室・体操教室・ピアノ・バレエ・英会話に通う事になり辛い生活が始まった。習い事で母の思うような結果が出せないと、二人きりの時には母に殴られるようになった。

また、バレエの先生もヒステリックですぐに怒鳴り、幼稚教室では何かミスをすると先生が生徒に「ダメダメさん」というレッテルを貼って他の生徒全員がその生徒を「判断ミス」と指摘する文化があった。習い事をやりたくないと言ったら、オランダに行ってしまった父だけでなく母ももう二度と家に帰って来なくなるのではないかと思い何も言えずにいた。けれど日々が苦痛だった。習い事の教室に行くと萎縮して動けなくなったり急に涙が出てくる事が多く、全く授業にも取り組めず家では毎日くたくたで練習もしなかったので何も習得できなかった。テレビで子供が誘拐殺人されるニュースを見るたびに羨ましいと思った。自分の日常を終える事ができて、明日の習い事の時間が来る苦しみから解放されるなら殺されても良かった。

習い事に連れて行かれる電車の中でいつも、誰かが私を誘拐しようとしないか期待を込めて周囲の様子を伺っていたが、残念な事に私に興味を示す人はいなかった。

改めて考えると、何も習得できなかった習い事にも結構な額をかけられていたと思うので母には申し訳ない。申し訳ないとは思うものの、どうすれば良かったのか分からない。

 

 

父方の祖父母と母方の祖父母の家を行ったり来たりしていた時期、何度かオランダの父の家に遊びに行った。

ある時、もう日も暮れた時間に父に「海に行きたい」と駄々をこねると、父は私を車に乗せて海につれて行ってくれた。

海に着くと、水平線に太陽が沈んでいくところだった。

父が冷たくなった浜辺の砂を私の手に乗せて「夜になるってこういうことだよ」と言った。

今改めて思い出すと訳の分からない言葉だけど、私は昼間あたたかかったはずの冷たい砂を握りながら、全てが絶えず変化してゆき時間が流れていく事を意識した。時間の概念を初めて認識した瞬間だった。

 

 

四歳になる頃、父が日本に帰国した。今度は父と母と私と三人で東京に住む事になった。この頃から母は私と二人きりの時に頻繁に私を叩くようになったが、父と暮らせるようになった事が嬉しかったので幸せだった。

通い始めた幼稚園で同い年の友達ができた事も嬉しい変化だった。

また、時折家に手伝いに来てくれた祖母にいろんな日本の民話を読み聞かせてもらった事をきっかけに、民話や怪奇譚に興味を持ち始めた。

今でもこういった好みや関心は自分の中にあり、子供の頃に経験した出来事が自分を作っていると感じる要素のうちのひとつだ。

 

こんな感じで、今暮らしている家での生活が始まった。