透明草子

百鬼夜行からはぐれてしまったので、仕方なく人間に擬態している

煙草子

胸から取り出した煙草の箱は、角が擦れて変形していた。安物のライターを無理やりねじ込まれたそれは苦しそうにも見える。大人の社会に対するほんの少しの抵抗のつもりで始めた嗜好品はやがて私が正気で働くための必需品となり、いつの間にか強く社会生活と結びついていた。

いつもと同じように一本取り出して火をつける。いつも通り、この街の味がする。

もうじき夜明けだ。責任ある大人が、家にも帰らず公園のベンチにもたれて喫煙していていい時間ではない。けれど身体中が痛く、頭は鉛を詰められたように重く、立ち上がる気力はこの身体のどこにも残ってなかった。ひょっとすると風邪も引いてるかもしれない。

僕はただ、街が少しあかりて、煙草の先から紫だちたる雲のように煙がほそくたなびきたるのを見ていた。僕は昔、古文を読むのが好きだった。そんな時代もあった。一月の朝。

しばらくすると、煙草の煙が染みた脳が覚醒し始めた。朧げだった昨夜の記憶が蘇る。

会社から家に帰る途中、飲み屋に寄って一人で酒を飲んでそれから店を出た後もコンビニで買った酒を浴びるように飲んだのだった。

別に嫌なことがあった訳じゃない。失敗したり叱責されるようなことは無かった。変わったことも無かった。そう、何も無かったんだ。ただ、希望に溢れていた頃の自分を忘れられない僕が、今の僕を許せなかっただけ。社会の中でただ少しずつ擦り切れていくだけの自分を。

受け入れ難い今のこの現実が頭痛とともにぐにゃぐにゃに変形して、何もわからなくなるまで。酒に強くない体に何杯もウィスキーを流し込んだ結果、今こうして公園でへばっている訳だった。

実のところ、こうして酒を飲むには初めてでは無かった。度々こうして苦しい飲酒を重ねていた。

何度も、何度もやった。何度も僕は今の自分が許せなくて、やりきれない気持ちで泣きそうになった。

でもこれはきっと、そんなに悪いことでもないのかもしれない。この感情が残っていることが、僕が僕としてまだ生きていることの証拠なのかもしれないから。そのうちこんなことも考えなくなるのかもしれない。自己満足かもしれないけれど、僕は格好悪い最後の僕を愛してやってもいいんじゃないかって、そんなふうに思う。

だからって訳じゃ無いけど、僕はようやく重い腰を上げていつものように家路に着く。今帰れば多分、出勤するまでに少しだけ眠ることができる。

まだ街が動き出す前の冬の朝はひどく寒くて、研ぎ澄まされている。