透明草子

百鬼夜行からはぐれてしまったので、仕方なく人間に擬態している

煙草子

胸から取り出した煙草の箱は、角が擦れて変形していた。安物のライターを無理やりねじ込まれたそれは苦しそうにも見える。大人の社会に対するほんの少しの抵抗のつもりで始めた嗜好品はやがて私が正気で働くための必需品となり、いつの間にか強く社会生活と結びついていた。

いつもと同じように一本取り出して火をつける。いつも通り、この街の味がする。

もうじき夜明けだ。責任ある大人が、家にも帰らず公園のベンチにもたれて喫煙していていい時間ではない。けれど身体中が痛く、頭は鉛を詰められたように重く、立ち上がる気力はこの身体のどこにも残ってなかった。ひょっとすると風邪も引いてるかもしれない。

僕はただ、街が少しあかりて、煙草の先から紫だちたる雲のように煙がほそくたなびきたるのを見ていた。僕は昔、古文を読むのが好きだった。そんな時代もあった。一月の朝。

しばらくすると、煙草の煙が染みた脳が覚醒し始めた。朧げだった昨夜の記憶が蘇る。

会社から家に帰る途中、飲み屋に寄って一人で酒を飲んでそれから店を出た後もコンビニで買った酒を浴びるように飲んだのだった。

別に嫌なことがあった訳じゃない。失敗したり叱責されるようなことは無かった。変わったことも無かった。そう、何も無かったんだ。ただ、希望に溢れていた頃の自分を忘れられない僕が、今の僕を許せなかっただけ。社会の中でただ少しずつ擦り切れていくだけの自分を。

受け入れ難い今のこの現実が頭痛とともにぐにゃぐにゃに変形して、何もわからなくなるまで。酒に強くない体に何杯もウィスキーを流し込んだ結果、今こうして公園でへばっている訳だった。

実のところ、こうして酒を飲むには初めてでは無かった。度々こうして苦しい飲酒を重ねていた。

何度も、何度もやった。何度も僕は今の自分が許せなくて、やりきれない気持ちで泣きそうになった。

でもこれはきっと、そんなに悪いことでもないのかもしれない。この感情が残っていることが、僕が僕としてまだ生きていることの証拠なのかもしれないから。そのうちこんなことも考えなくなるのかもしれない。自己満足かもしれないけれど、僕は格好悪い最後の僕を愛してやってもいいんじゃないかって、そんなふうに思う。

だからって訳じゃ無いけど、僕はようやく重い腰を上げていつものように家路に着く。今帰れば多分、出勤するまでに少しだけ眠ることができる。

まだ街が動き出す前の冬の朝はひどく寒くて、研ぎ澄まされている。

きれいに磨かれた楽器がショーウィンドウの中で眠っている。

人の流れに沿って御茶ノ水駅へと運ばれそうになる。

その中で紺色のポロシャツを見かけた気がした。

雨は降っていないけどビニールの傘をさすと、周りの人と自分の周りにさっと溝が生まれ、人混みの中に穴が開いた。

周りの人間も楽器ショップも、社会の断片は自分と異なるレイヤーに存在する。

透明な膜で私たちの世界は隔てられている。

広告塔の明かりも、右折を主張する車のテールランプも誰かのスマホ画面から漏れ出す光もそれは意味をなさない。

視界にオレンジのラインが差し込まれ、中央線が橋の上を走り抜ける。

イヤホンの中で瞬く重音テトの歌声。

遠くの星では誰しもポケットの中に孤独を握りしめているらしい。自分のポケットの中には未開封の0.3mmシャー芯が入っていた。

 

 

今ここにある全てが走馬灯であって欲しい。

自分はまだ御茶ノ水にいて、繭に包まれているのであって欲しい。

 

 

 

さよならを教えて、メモ感想1

一日目冒頭

「....!」
侵食....。
「....!」
同化....。
それは同化に相応しい行為だった。

性行為は同化する行為なんだろうか 血縁があり生き物として似ている者との性行為は好ましくない。天使と怪物、両極端の存在の同化で連想するのはガリヴァー旅行記ラピュタ編で登場 するバルニバービの医者の考え。曰く、両極端の思想を持つ政治家の脳を繋ぎ合わせるこ とで調和の取れた人間が作れると言う。 こと、さよならを教えてにおいては調和とは言い難い状態らしい

怪物が僕に向かって口を大きく広げた。
粘膜質の口腔....大いなる深淵。
僕は負の絶対存在である『彼』に喰われながら、奇妙な感覚に包まれていた。

なんとなく絶対存在、怪物というとクトゥルフっぽい? クトゥルフ神話の化け物たちも、私は人の心の中から現れた存在なんじゃないかと思っ てる。
メモ、体内回帰

 

となえとの会話

となえのボイスの音量に比べてbgmがデカい。ExeファイルをWineで無理やり開いてるせい?現実の会話よりノイズや不安の方が脳内で支配的なのかな、とこじつけることもできる。

人と会話するのが苦手な僕にとって、彼女のような自分から話題を振ってくれる人間は、ありがたい存在である
それでついここにやってきてしまうのだが‥‥会話しているうちに、またぞろ苦手意識が首をもたげてくる。その繰り返し。

人に気を使うのは面倒だけど、孤独は埋めたいという傲慢な考え。

少女はうつむき加減でゆっくりと室内に入り、引き戸を閉めた。
僕は無関心を装って彼女から視線を外し、新しい煙草に火を点けた。

こういう時に手持ち無沙汰にならず様になる仕草ができるのが喫煙者のずるいところだと思います。

彼女の顔に見入る僕の顔が、少女の瞳の中に映っているのが見える。
少女もまた、僕の瞳の中に自分の姿を見ているのだろうか。
奇妙な合わせ鏡。

人見が睦月と見つめ合うシーンなのだけど、それ以上に同化や投影を連想させるシーン だと思う。 安部公房によれば「見る」行為には愛があり、「見られる」ことには憎悪がある。さよな らを教えてにおいても、人見君が少女達を見るのは好意があるからだけれど、少女たちの 純粋な瞳に醜悪な自分が射抜かれることについてはストレスを感じているように見える。 それから、ここで合わせ鏡という単語が出てきたことで、ここから先現実ともつかぬ不思 議な領域に入り込んでいく予感が湧く。

 

校内探索

真っ白い便器を見つめながら、僕は用を足している。 僕は、トイレの個室にいる時間が嫌いではない。
1 人きりになれる空間。小さな個室の心地よい閉塞感。

共感できる。自分もトイレの個室に隠れて、礼拝や合唱練習から逃れたことが何度もあっ た。人に溢れた校舎の中で数少ない、鍵を閉めて他人との関わりを拒絶できる場所。他人 との関わりから自分を守ってくれるシェルター。

階段を上がると、長い廊下にずらりとドアが並んでいる。
白っぽい廊下の風景は、傾いた陽の光の影響で、奇妙に霞んで見えた。
僕の中で、昼間、人がいる間は希薄だった『現実浮遊感』が強まってくる。

魅力的な文章だと思った。人がいない夕暮れは、現実でないどこかに行けそうな気がする。

 

 

睦月との邂逅

無垢な存在、無垢な魂の前では、自分の存在が不安定になる。
自分の『汚れ』が無残に露呈してしまう。 圧倒的な存在を前にして感じることができるのは、『恐怖』のみ。

自己の不安定さ。

 

望美との邂逅

bgm が他のどのキャラよりも良い。少し民俗調で爽やかな風を感じさせる曲だと思う。 そしてそれは、鬱屈とした世界に囚われている人見君が手を伸ばしても届かない世界で もある。高田望美は見た目もやっぱり一番可愛い。垂れ目なのに気が強そうなところとか。

彼女は、探るような目付きで僕のことをじっと見ていた。
警戒しながらも、こちらへの興味を隠そうとはしていない。
その立ち姿には、下手に声をかけると逃げ出してしまいそうな危うさがあった。
そう、ちょうど小鳥みたいに。

→『声をかける』 少女の魅力が表れている。

 

 

職員室、瀬美奈との会話

 物音に気づいた瀬美奈が、怪訝そうな顔を僕に向けた。いつも飲んでいるジュースを飲んでみたら全然違う味がした....そんな表情 だ。

 

太宰治の「斜陽」にこんな文がある。

朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、
「あ」と幽 かな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ 」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。 太宰治「斜陽」
どちらも、人間関係の居心地の悪さがよく表れているシーンだ。
瀬美奈も斜陽のお母さまも、何か飲食物に違和感があったかのような反応をする。(瀬美奈のは例えだけれど)
口の中に入れた物に問題がある場合、体を害する可能性がある。口に入れたものに対する違和感というのは、例えばシャツに染みを見つけた時や、道端でガムのポイ捨てを見つけた時なんかよりずっと生理的な嫌な感覚なのだと思う。ひょっとすると、瀬美奈やお母さまは主人公達に生理的な嫌悪感を持っている部分があるんじゃないだろうか。

 

自殺企図した時のこと

大学2年の秋に、私は数回自.殺企図した。その中で一番死に近付いたと思われるときの事を書こうと思う。

 

自.殺願望自体は幼少期からあった。生活(苦痛)を続けるために苦痛に身をやつさなければならない無意味さは耐え難かったし、望まぬタイミングで交通事故にあったり火事に巻き込まれたり病気に苦しみながら衰弱するよりは、自分で死期と死因を選べる方が良いと思っていた。

そして大学に入学したあたりから自己同一性が拡散していたことや、母との関係性の悪化、睡眠が上手く取れなくなり睡眠不足による肉体的苦痛が続いていた事が、願望を実行に移すきっかけになった。

 

自.殺する方法としては首吊りを選んだ。一番確実に苦痛なく死ねると思ったからだ。

しかし、私の部屋に首吊りの紐をかけるのにちょうどいい梁は無かった。

ドアノブや椅子を使っても出来るかもしれないが、確実に速やかに頸部を圧迫できるようにしておきたかった。そこで、筋トレをする人が懸垂等に使うぶら下がり健康器を買って、そこに紐をかけることにした。紐はアダルドグッズの専門店で緊縛用の縄を買った。人の身体に触れることを前提として作られたものの方が、首を絞める時の苦痛が少なそうだと思ったからだった。

 

準備が整ってからもなかなかすぐには首を吊ることが出来なかった。

死ぬのが怖かった訳では無い。死にきれず、後遺症をおったまま生き長らえる可能性が怖かった。脳に障害が残ったり身体が動かせなくなってしまったら、生き地獄を味わいつつ再度自.殺することも出来ないかもしれない。周りの人が安楽死させてくれるとは思えない。ネットで毎日、自.殺に失敗した人の投稿や脳に後遺症を負ってしまった人の映像を見て、「早く死にたい」と「死にきれなかったらどうしよう、自.殺するのが怖い」と同じことを反芻して考えていた。

 

自.殺企図する機会は不意に訪れた。

大学の物理学実験がある日の前日、ふと「今日死ねば明日物理学実験に行かなくていいんだ」と思った。馬鹿みたいな理由に思われるかもしれないが、その年物理学実験は一限目からあり、夜に一睡も出来ない自分としては、痛みのように眩しい朝日を浴びながら、痴漢も乗車している通勤ラッシュの電車で学校に行くのが本当に苦痛だった。

 

途中で親に見つかって助けられると後遺症生存ルートになるかもしれないので、深夜に親が寝たのを確認してから自.殺することにした。

深夜二時頃、まず御手洗に行った。筋肉が弛緩しても、体液垂れ流しの状態にはなりたくなかった。

次に手首にラヴェンダーの香水を付けた。自己陶酔じみた気持ち悪い行為。ずっと安らかに眠りたい、という祈りのような気持ちだった。

そして紐の一端をハングマンズノットに結び、もう片端じをぶら下がり健康器に結んだ。ぶら下がり健康器の近くに椅子を持ってきて、椅子にのぼり、紐を首にかけた。

死ぬ覚悟は出来ていたが、失敗した時の事を考えると緊張し、冷や汗が吹き出し鼓動が早くなった。

私は改めて自分の頸動脈の位置を確認するために、軽く自分の首を絞めた。気絶してから窒息するのが理想で、そのために頸動脈を紐でしっかり圧迫する必要があると考えたからだ。

日頃の首.絞めのせいで落ち癖がついていたのか、私はそこで眠気のようなものを感じた後気を失った。

 

私は身体全体に電流が流れるような感覚で目を覚ました。目を覚ましても辺りが暗く何も見えず、どういった状況に陥っているのかよく分からなかった。手足が勝手にバタバタと動いているのが分かった。眼球や舌が飛び出るような感覚もした。口から息を吸おうとすると「ひゅ」という声が漏れて首が絞まった。

私はこの時、首を吊って足が床につかない状態だった。

息が苦しくなり、小学校の時の水泳で、クラスの男の子に頭を押さえつけられて息継ぎが出来なくなった時の事を思い出した。

闇雲に手を振り回していた時、手がぶら下がり健康器のぶら下がり棒に当たった。反射的に、私の手は懸垂の要領で自分の身体を持ち上げた。

 

再び目を覚ますと私はぶら下がり健康器の柱にしがみついていた。気を失っていた自覚が全く無かったのだが、記憶が途切れているので一瞬気を失っていたのだと思う。

その時縄は首にキツく巻きついていて、血液が滞っているのか耳元で脈拍のような音が聞こえた。

まずぶら下がり健康器に結んだ紐を解き、それから首の紐を解いた。

自分の頭は死.ぬ気だったが、身体が本能的に助かろうとして行動してしまった。

声を出せるか試そうと思い、「あ」と発声しようとすると細い息だけが出た。

助かってしまった以上、後遺症が気になったがそれよりも疲れていて自分の状態を確認する気力が出ず、私はそのまま眠った。

 

 

翌朝、私は部屋の床に倒れて寝ているところを父に起こされた。

「今日は実験に行く日だろ」と言われて、絶望的な気持ちになった。後頭部が鈍く痛む。眠過ぎて身体がすぐには起きなかったのでカフェイン錠剤を飲んで身体を起こした。

 

とにかく絶望的な気持ちと、首をすぐに吊り直さなかった後悔でいっぱいの状態で、支度をして家を出た。

外に出るといつもよりも朝日が鋭く、眩しさが目の奥の痛みのように感じられた。

 

電車に乗るにあたって、乗り換えミスや乗り過ごしをしてしまったせいで実験に20分ほど遅刻した。元々こうしたミスは多かったが、この日は特に頭が混乱していて日常生活レベルのことを上手く考えられない状態だった。

 

実験の教室に着くと、TAに授業準備としてノートを取ってきたか確認された。自.殺するつもりでいて、当然実験の準備のノートなど取っていなかったので、「ノート書いてません。すみません。」と言うと、「本当にそれでいいの?」と注意された。普通に考えれば授業態度のことを言われているのだが、実験から逃避しようとして自/殺企図したことを見透かされて批難されているような気がして、よくわからない羞恥心が込み上げた。

 

その日の実験中、電流だったか電圧だったかを計測している時、器具の扱いで同じミスを3回した。やはりまだ頭が正常に働いていないのだと痛感し、脳に後遺症を負ってしまったかもしれないと思った。ただでさえ元々頭が悪かったのに、更に悪化したと思うと絶望的で再び自殺企図することを考えていた。

当時はこのように自分の事しか考えていなかったが、この時一緒に実験していて、私のせいで実験が3度もやり直しになったのに怒らず対応してくれた子には本当に感謝している。

その日はずっと頭の中が混乱して考えがまとまらない状態だった。

 

幸いその翌日から、徐々に思考レベルが回復に向かった。

 

そしてその週の土曜日の朝、心療内科から携帯に電話がかかってきた。半月前に予約していた知能テストを今日受けるか?という旨のものだった。

知能テストの予約をしたことをそれまで忘れていたが、自分が脳に後遺症を負っていないか確かめる良い機会だと思いテストを受けることにした。

そしてテストの結果、知能指数に関しては特に問題が無い事が分かった。

しかし知能指数に現れない部分に問題を負ってしまった可能性や、自.殺企図以前の知能指数より下がってしまった可能性はある。

また、自覚がないだけで脳以外の部分に後遺症を負っている可能性もある。

 

今現在、後遺症の可能性に関しては検査などをしておらず放置しているが、なんとか日常生活は送れている。

 

今後、自.殺企図をするかどうかは自分でもよく分からない。容易に人間の身体は死ねない事が分かったので、重い後遺症を持ったまま生存してしまう可能性について以前よりも慎重に考えるようになった。また、幸か不幸かコロナ対策でオンライン化が進んだおかげで以前よりは睡眠時間が確保出来ている。そして母との関係も以前より良好だ。希死念慮自体は依然としてあるが、安易に自.殺企図しようとは思わないだろう。

しかしいつかまた自分に絶望した時に死のうと思うのかもしれない。

ぶら下がり健康器と紐はまだ保管してある。

 

記憶障害になった祖母について感じたこと

04:47

気分が可もなく不可もなく無なので、こういう時に祖母について感じたことを書いておこうと思う。

 

祖母は私が高校生だった頃に自転車で転倒し記憶障害になった。

そして祖母は新しいものから順に少しずつ記憶を失っていった。

 

最近はコロナへの危機感もあり会えておらず、最後に祖母に会ったのは一年半ほど前だった。

その時の祖母はまるで少女のようなきらめく表情をしていた。私という孫の存在も、娘である母のことも忘れていた。ただただ、少女時代の幸せな記憶だけを持ち続け思い出の中に生き続けていた。小学校の近くの山に栗を拾いに行ったこと、釣りに行く男の子たちについて行ったこと。素敵な憧れの先生のこと。

私が知っている祖母は偏屈で気難しく何かに苛立っていることが多かった。夏の暑さや冬の寒さ四季折々の変化に苛立ち、私のことを何かと「みっともない」と叱り、強引に祖母の趣味の百人一首を暗記させようとしてきた。そして嫌いな親戚に言われた言葉について執念深く恨み節を述べた。

転倒事故以降の祖母は、「私の祖母」の人格を構成していた記憶の累積を綺麗さっぱり失っていた。

身体は祖母そのままなのに、別の人間がそこにいるようにみえた。

 

ヨーロッパの伝承にチェンジリングという話がある。妖精が人間を拐って代わりにその人によく似た姿の妖精を置いていく、というものだ。

 

私は記憶障害になってからの祖母と相対する度に、チェンジリングの話を思い浮かべた。頭では目の前にいるのが祖母だと理解していても、心のどこかでその人が祖母とよく似た姿をした別人だと思ってしまうのだ。何も知らない子供のような瞳をかがやかせる祖母は妖精のようだった。

本来だったら悲しみや、これから長くはないかもしれない祖父母との時間を大切に思う気持ちになるべきだと思うのだが、なんだかずっと奇妙な心地だった。

 

たまに私の「本当の祖母」がどこか遠くの知らない場所で帰り道を失って途方に暮れてるんじゃないか、という感覚に陥る。気難しくて偏屈で、寝る前に昔話を読んでくれた祖母。私が「ばあばが動けなくなったら私が助けるよ」と子供特有の無責任な純朴さで発した言葉に涙を流していた祖母。心配性で神経質な祖母が、どこかで私が迎えにいくのを待っているような気がする。私は祖母を探しに行かないといけない気がする。

 

伝承ではチェンジリングから本当の知人を取り戻すためには妖精を火にくべるなど、死の危険性を伴う虐待に等しいような事をする必要がある。もちろん、いくら奇妙な感覚に陥ったとしても、私はそんな事はしない。そんな犯罪を犯しても自分の知っている祖母は帰ってこない。ただ、チェンジリングの寓話がどのように生まれたのかは分からないが、目の前にいる人をその人本人と受け入れられず本当のその人を取り戻すために躍起になってしまった人たちの気持ちは分からないではない。

 

相手の不連続さをうまく受け入れられない。

相手が口を開くたびに違和感を覚えてしまう。

偽物だと確信して蛮行に至るほどには正気を失っておらず、かといって事実をすんなり受け入れられるほど地に足をつけられていない自分は、この先も、この祖母が無くなった後もずっとこの奇妙な気持ちを持て余し続けるのだろうか。

 

私は今日も祖母を見つけられないでいる。

 

 

 

今までの生活①

1998年東京生まれ。

これは、世界のさまざまな場所で、52Hzと呼ばれる孤独なクジラの鳴き声が検出され始めてから18年後のことであり、村上龍の小説「歌うクジラ」においてグレゴリオ聖歌を歌うクジラから不老不死の遺伝子が発見される24年前のことだ。

 

 

生まれてから半年ほどで、父の転勤に伴ってロンドンのウッドサイド・パークに移住した。当時は簡単な英語で周囲の子供に対しておもちゃの所有権を主張していたと聞いたのだが、今は見る影もなく英語も自己主張も苦手だ。ロンドンでの記憶はほとんど無い。あるのは紅葉の積もった公園でリスを追いかけたことと、庭に胸が白いカラスが来たことくらい。こういった記憶の中の景色はたまに視界に蘇って目の前の景色と重なるように見えることがある。

 

 

それから二歳になった頃に日本に帰国し、初めは神奈川にある父方の祖父母の家で生活していた。

この頃に父はひとりでオランダに行ってしまった。

父方の祖父母の家は、洋風な家具、かわいらしく繊細な置物や何らかの骨董品が保管され、庭には色んな花が植えられていて、豪邸などではなかったもののお洒落でわくわくする家だった。家には祖父母の他に叔母が三人と犬が三匹、猫が五匹いた。私はその家で大人達にベタベタに甘やかされた。欲しいおもちゃ(主にシルバニアファミリーのグッズ)は何でも買ってもらえた。何をしてもかわいいと褒められたので自分は世界で一番かわいいと思っていた。

幼稚な万能感を養いながら、子供なりに幸せだったと思う。

 

 

生活の変化は不意に訪れた。

何の前触れもなく、ある日急に母に連れ出され、着いた場所は千葉にある母方の祖父母の家だった。小さい畑に面した、古くて薄暗い埃っぽい和式の家だった。

母方の祖父母も不器用ながらも優しく、厳しくも多趣味で面白い叔母がいて、すぐに新しい家族を好きになれた。

しかしここで母の教育熱心人格が覚醒した。

幼稚教室・体操教室・ピアノ・バレエ・英会話に通う事になり辛い生活が始まった。バレエの先生はヒステリックですぐに怒鳴り、幼稚教室では何かミスをすると先生が生徒に「ダメダメさん」というレッテルを貼って他の生徒全員がその生徒を「判断ミス」と指摘する文化があった。習い事をやりたくないと言ったら、オランダに行ってしまった父だけでなく母ももう二度と家に帰って来なくなるのではないかと思い何も言えずにいた。けれど日々が苦痛だった。習い事の教室に行くと萎縮して動けなくなったり急に涙が出てくる事が多く、全く授業にも取り組めず家では毎日くたくたで練習もしなかったので何も習得できなかった。テレビで子供が誘拐殺人されるニュースを見るたびに羨ましいと思った。自分の日常を終える事ができて、明日の習い事の時間が来る苦しみから解放されるなら殺されても良かった。

習い事に連れて行かれる電車の中でいつも、誰かが私を誘拐しようとしないか期待を込めて周囲の様子を伺っていたが、残念な事に私に興味を示す人はいなかった。

改めて考えると、何も習得できなかった習い事にも結構な額をかけられていたと思うので母には申し訳ない。申し訳ないとは思うものの、どうすれば良かったのか分からない。

 

 

父方の祖父母と母方の祖父母の家を行ったり来たりしていた時期、何度かオランダの父の家に遊びに行った。

ある時、もう日も暮れた時間に父に「海に行きたい」と駄々をこねると、父は私を車に乗せて海につれて行ってくれた。

海に着くと、水平線に太陽が沈んでいくところだった。

父が冷たくなった浜辺の砂を私の手に乗せて「夜になるってこういうことだよ」と言った。

今改めて思い出すと訳の分からない言葉だけど、私は昼間あたたかかったはずの冷たい砂を握りながら、全てが絶えず変化してゆき時間が流れていく事を意識した。時間の概念を初めて認識した瞬間だった。

 

 

四歳になる頃、父が日本に帰国した。今度は父と母と私と三人で東京に住む事になった。この頃から母は私と二人きりの時に頻繁に私を叩くようになったが、父と暮らせるようになった事が嬉しかったので幸せだった。

通い始めた幼稚園で同い年の友達ができた事も嬉しい変化だった。

また、時折家に手伝いに来てくれた祖母にいろんな日本の民話を読み聞かせてもらった事をきっかけに、民話や怪奇譚に興味を持ち始めた。

今でもこういった好みや関心は自分の中にあり、子供の頃に経験した出来事が自分を作っていると感じる要素のうちのひとつだ。

 

こんな感じで、今暮らしている家での生活が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無題

僕はいったいどこに向かっているんだろう
立ち止まりたいと思っていても歩き出せずにいても時間はこころを置き去りに流れ、望んでもいない未来に押し流されていく。
水の入ったビンの中で希望を失って沈むのを待つラットのように、僕は流されている。
アルジャーノンに花束を手向けたって何にもならない。
ビンの中のネズミは実験の後どうなったんだろう。
どこかの海岸に瓦礫と一緒に打ち上げられるくらいなら、と思いながら魚のえさになるのはこわくて、水を飲む勇気も出ないまま流されている。自分の思ったことをやりたいことを言うことさえできない。こわいから。
僕たちはみんな漂泳生物(ぺラゴス)、中でも水の流れに抗えないものを浮遊生物(プランクトン)という。
光る魚を追いかけて深みまで泳いできて、それが幻想だったと知ったときにはもう遅かった。